マスター濱田浩朱、高田なづなプロフィール

マスター濱田浩朱、高田なづなプロフィール

 濱田浩朱(はまだひろあけ)1966年 京都

  少年のような純粋さと好奇心を持つ彼は、かつてバーのマスターをしていたことから、
  「マスター」の愛称で皆に親しまれている。

  当時、バーを訪れる様々な客と接しているうちに、
  多くの人は言葉や考えと実際の行動との間にギャップがある、
  ということに気付く。

  そこで、この不思議な現象について文章にしてみようと思い立ち、
  メルマガの配信を始めたところ、好評を博す。

  もっと心について話したい、追求したいという気持ちから、
  セミナーやワークショップの開催を始め、紆余曲折を経て今に至る。


  昔はとにかくお金の心配ばかりしており、
  もっとお金が欲しい、お金への不安を失くしたいという強い思いから、
  数々のビジネス系セミナーに参加していた。

  そんな折、とあるセミナーで参加者の一人に、
  座禅で人生が変わったという話を聞き、試してみることに。

  そうして出かけた人生初めての座禅修行で、
  こころが静かになるという体験を通して、
  自身の在り方のようなものが、根本から大きく変わる。

  これをきっかけに悟りに本格的に興味を持ち、探求を続けてきた。

  そして、導かれるように出会った覚者の元、ついに悟りの一瞥を体験する。
  2010年9月のことであった。


  世間的な観点から見ても、サラリーマン、バーのマスター、セミナー講師など、
  バラエティに富んだ仕事に就いており、人生経験は豊富である。

  しかし彼自身には、そのような人間が陥りがちな、
  人生のキャリアを自分の付加価値とみなすような、
  ある種エゴ的な雰囲気が全くもってない。

  座禅での一瞥の後もなかなかに特異な体験をしているのだが、
  彼は自身の体験を、淡々と話す。

  あるいは、まるで楽しい出来事を報告する子供のように、
  活き活きとした表情で。

  体験はただの体験。

  起こるべくして起こるだけのこと。
  そこには一切の時間の流れが感じられない。

  ただ彼という一人の、圧倒的なまでに自然体な存在があるだけなのだ。


  純粋であるということは、自分の感情に素直であるということでもある。

  嫌なことがあれば嫌と言うし、
  機嫌が悪ければイライラを隠さないし、いくらでも毒を吐く。

  まるで自分を飾ったり無理することのない自然な姿は、周囲の人に安心感を与える。

  好きなことにはひたすら没頭し、情熱的に真摯に取り組む。
  好きな人を誘って、好きなところへ行き、好きなことをする。

  むしろ最近では、好きなことしかしないという説もある。


  ワークショップやセッションにおいても、その姿勢は変わらない、
  常に自然体の彼が発する言葉は、だからこそ、相手の心の深くに、
  知らず知らず蓄積され、来たるべきときに浮上しては、大きな気付きを与えてくれる。

  いつまで彼を近くで見ていても、
  彼の人となりを的確に言葉で説明することはできない。

  それはまるで、見る人に寄ってくるくると姿を変える、鏡のよう。
  その根底には、大きな、愛とでも言うべきものがある。


  今や、その生き方は原因と結果の法則から完全に抜けていると言ってもいい。

  こういう経歴があって、だからこうなった、
  という理屈すら、彼には当てはまらなくなってきている。

  全てはただ起こるままに起こる。


  まるでつかみどころのない彼という存在において、
  それでも確固としたひとつの真実がある。

  それは、彼はこの世の何よりも、酒とホルモンに目がないということだ。

  ここから先は、どうかあなた自身の目で、確かめてほしい。


 
 高田 なづな(たかたなづな) 京都

  いつ何時も、静かに、穏やかに、この世界を見守る人。

  マスターの隣で優しく微笑むその姿は、
  一見すると、少年のような彼を見守る観音様のようでもある。


  しかし、その天然ぶりは相当なもの。


  朗らかで上品な所作の中から唐突に飛び出す摩訶不思議な言動は、
  自然すぎて危うく見過ごしそうになる類のものであるが、
  ぜひとも注意深く、二度見してほしい。

  そこには我々が見たこともない新たな境地、発想、芸術がある。
  無邪気さもここまでくると、無敵なのである。


  初めはマスターのワークショップの一参加者だったが、
  気がつけば彼の隣りに座り、にこにこと笑顔を見せながら彼をサポートし、
  やがて、全ての人にとって安心で安全な場を作り出す大きな存在となっていった。

  ワークショップやセッションでは、ほとんど発言することはない。

  ただ、その場にいるだけで、相手を和ませ、その心を丸裸にしてしまう。
  それでいて、ごくまれに発する一言は、真実の核の核を、寸分たがわず突く。

  まさに神技である。


  そんな彼女は、2013年、三昧琴(ざんまいきん)という楽器と出会う。
  その澄んだ音色を耳にした瞬間に、たちまち心を鷲掴みにされた。

  これだ!!

  すぐさま三昧琴の製作者のもとを訪ねて行き、色々と話を聞いているうちに、
  ますます三昧琴の魅力にはまっていった。

  そうして夢中になっているうちに、2014年6月、ひょんなことから、
  大舞台で三昧琴の演奏を披露する機会が訪れる。


  純粋に好きなことに取り組むと、
  おのずと道が開けていくという、典型的かつパワフルな例である。

  「いつの間にかそうなっていた」というのは、
  彼女の人生において多々起こることである。

  そこには何の気負いも意気込みもない。

  ただ毎日の暮らしの中で、
  瞬間瞬間を心から楽しむための選択を積み重ねているだけ。

  すると「いつの間にか」愛するものに囲まれ、守られ、
  穏やかであたたかで、しかも欲しいものが何でも手に入ってしまうという、
  ワンダフルな日々がやってくるのである。


  三昧琴には基本的にセオリーはない。
  奏者のインスピレーションで自由に鳴らす楽器である。

  その瞬間に降りてくる感覚のままに、心を無にして弾くのがいいという。

  これは、彼女の生き方そのものである。

  彼女が奏でる三昧琴の音色は、そのまま彼女の存在を現しているようにも感じられる。
  決して主張せず、気がつけば静かに鳴り響いている澄んだ音。

  音は絶え間なく鳴り響き続けているというのに、
  そこにあるのは圧倒的な静寂。

  彼女は、静寂の奏者なのである。




  <おまけ。ふたりについて>

  無。何もない。だけど二人は確かに存在する、
  流れる水のように、この世界に充満する空気のように。

  あるけどない。ないけどある。万物と等しく二人は存在する。

  子供のように無邪気で、しっかりとした大人の成熟さを持つ。
  街中の喧騒のようなにぎやかさと、海の底のような静寂を持つ。

  片方だけが存在することはできない。
  それは常に同時にそこにある。

  全ての感情を等しく発露する。
  時に全てを攻撃し、時に底知れぬ愛で世界を包む。


  一見すると、彼が動、彼女が静であるかのように感じる。
  けれど、そうではない。

  二人の中にそれぞれ、静と動が同居している。

  そのミクロな視点から視界を広げると、
  静と動がそれぞれ、二人の中に分担されているように見えるのだ。


  そして、さらに視界を広げると、
  この世界というひとつのものの中にいる二人に、やはり静と動がある。

  まるで美しい色彩のフラクタルのように、
  それは幾重にも折り重なって宇宙へ溶けていく。

  その不思議なからくりのような世界を見ているうちに、
  自分の心が静かになっていることがわかる。


  今まで見えていたものは全て消え去り、
  今まで見たことのなかった世界が眼前に広がっていることに気付く。

  自分もまた、その世界であり、静と動であったことに気付く。

                                  文:木下沢きのこ
                                    blogfacebook



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